法典寺の歴史

 

本堂全景
本堂全景

「安房国長狭村 誕生時末

 開山 万治元年戊戌年四月八日

 開祖 利生院日幸

     元禄二年五月二十一日寂ス――」  

           ――『寺院明細簿』――

 

「高林山法典寺

 日蓮宗 小湊末 日ヶ窪 開山 利生院日幸聖人――」

          ――『江戸名所図誌』――

   

 法典寺周辺の地に家々が立ち込み、日ヶ窪町(『法典寺雑記』参照)とよばれて町奉行の支配下になる

のは正徳3年(1713)3月のことです。

 

 江戸時代の全国の寺院は、幕府の宗教統制策の一つである。「諸宗諸本山諸法度」によって本末関係

(『~雑記』参照)の確率が義務付けられており、法典寺は小湊誕生寺末(千葉県)と本末関係を結びました。

 小湊誕生寺は、日蓮聖人誕生日に建立された由緒ある寺院で、不受不施派に属していたことから、幕府の厳しい数々の圧迫を受けたことでも知られています。

 

 不受不施とは、

法華経の信者以外に施しをせず、また施しを受けぬ……というもので、釈尊の絶対唯一の正法である法華経の宣揚弘通こそが、身命を賭すべき道である

と説くものです。

 

 こうした純粋で、絶対の仏法に殉じようとする行動は、時の権力者の最も嫌うところで、幕府の弾圧は厳しく多くの殉教者を出しております(『~雑記』参照)。

 小湊誕生寺と本末関係を結んだ法典寺も不受不施派であり、多くの圧迫を受けたであろうことは容易に推察されます。   

山門
山門

 寛永17年(1640)以来、檀家として寺院に帰属している住民は、みな戸籍上の身分が保証されていました。これを「寺請制度(てらうけせいど)」といいますが、元禄11年(1698)、不受不施派に属する寺院はこの「寺請」の資格を剥奪するということになりました。

受不施に転じない場合、檀徒家の人びとはすべて無宿者(戸籍のない者)になってしまうわけです。万策尽きた不受不施派の寺院は、表面は受不施、内面は不受不施として信仰を守りました。

                                「不受不施法乱」というのがそれです。

   またこの頃になると庶民生活も比較的安定し、人びとの間に物見遊山をかねた寺社詣でが盛んになります。

法典寺に安置される祖師像や鬼子母神十羅刹女像(『庶民信仰と法典寺』参照)へ参詣する人びとがあとを絶たなかったといわれるのもこの頃からのことでしょう。

 

 享保元年(1716)紀州(和歌山県)の徳川吉宗が第八代将軍位を継ぐと、庶民を震撼させた「享保の大改革」が行われます。

とくに農民への圧迫が激しくなり、各地で百姓一揆が続発しました。この改革に追い討ちをかけるように大飢饉が諸国を襲い、多数の餓死者が続出します。

いわゆる「享保の大飢饉」がそれです。

 

 こういった時代背景のもとで、法灯を高く掲げ寺院興隆に尽力したのが第7世大恵院日經上人です。極度な世情不安の中にあっての苦労は、文字通り筆舌に尽くせぬものがあったでしょう。

 

 宝暦3年(1753)、第11世日繁上人が境内に鎮守堂を建立し、日蓮聖人開眼の客人大明神(『客人大権現略縁起』参照)を安置しました。

 

 

 「鎮守  日蓮聖人開眼 但木立像 丈四寸 客人大明神 壱間四方小社安置――」

――『文政寺社書上』――

 

『客人大権現略縁起記写』によると

「此霊神を拝し、発願すること一つとして成就せずということなし」

と伝えられ、甲州勝沼(山梨県)から移された尊像です。  

歴代上人廟墓
歴代上人廟墓

 

 宝暦6年(1756)隣接寺院から出火した火災によって、法典寺の諸堂宇は灰燼と帰し、漸く再建したものの、宝暦10年(1760)江戸大火によって再び焼類してしまいます。

その都度、諸尊像は逸早く運び出されて消失を免れましたが、開創以来の旧記はすべて焼失してしまいました。

 

 江戸文化が最も花開いた文化・文政(1804~1029)のころになると、法典寺の檀徒家区域はますます拡がり、「(間口)六間、奥行五間」の本堂には25躯の仏像が安置されていました。

 

 客人大明神の信者たちは、それぞれの職域にわかれて講を結び、寺門隆昌への一助を担っていきました。

江戸時代における法典寺が最も隆昌した時期とみてよいでしょう。

   慶応4年(1868)、260余年にわたった徳川幕府が崩壊し、明治維新政府が樹立されて神仏分離令が公布されると、廃仏毀釈運動によって各寺院は一様に荒廃への道を辿ります。廃寺・無住寺となる寺院が続出したのもこの頃のことで、法典寺も宗教活動にまで支障を来す状態に陥ります。

  明治新政府の基盤が確立したといわれる明治8年から12年(1875~1879)にかけて、新政府の命によって全国各寺院から『寺院明細簿』が提出されました。

寺院のもつ特権をすべて取り上げた上で財産調べが行われたわけですが、その是非はともかくとして、寺史の調査の上では貴重な資料となっています。

 法典寺の明細簿は明治10年(1877)9月に、第26世日正上人によって提出されており、その記述は詳細をきわめ、廃仏毀釈運動などによって極めて大きな痛手を受けた法典寺が、わずか10余年ののちに見事に再興されていることがわかります。ここから法典寺の現代史が始まったわけです。

  日幸上人によって開創されて以来、たび重なる災禍に遭遇しながら、その都度、檀信徒家の信施を得て再建されてきた法典寺は、320余年にわたって法灯をともしつづけ現在に至っています。

永代供養墓
永代供養墓

日蓮宗立教開宗750年記念事業として

建立した永代供養墓です。

大人用の骨壷が2つ入るスペースとなっています。